短歌は芸術
こんにちは!Aoneko( @blue_cats03)です。今回は短歌とアートについての記事です。
【短歌は芸術】
最近短歌にはまっていて、その理由は、雑誌を目で追うような読み方とは違い、短歌を読むのは「身体的な行為」であると思ったからです。
文字という「記号」を通して、読者と作者が一体化するという不思議な体験を味わうと病みつきになります。https://t.co/kfHSfHHaBh— Aoneko Lab (@blue_cats03) March 23, 2021
短歌をはじめたきっかけ
筆者は普段IT系の仕事をしており、この世界の流れは非常に「はやく」、人間の生活が日に日にスピーディーかつバーチャルになっていると感じております。
そこで省かれる経過や経路、経験というプロセスを抜きにして「結果」を追い求めてしまいがちだと最近思い、その結果ができるまでに考えたことを表現したいと思いました。そのツールを「短歌」にしようと思ったことが短歌をはじめたきっかけです。
短歌との出会い
現代的な短歌評論『風景と実感』の中に、永田和宏氏の以下の短歌(『メビウスの地平』)が紹介されています。
ひとひらのレモンをきみは とおい昼の花火のようにまわしていたが
優しくてどこかさびしい口調が心に残る一首です。
「きみ」はおそらく喫茶店でアイス・レモンティー(あるいはレモン・ソーダ)を飲んでいて、輪切りのレモンをストローでくるくる回しているのでしょう。それを手花火の先に黄色い花火が散る情景にたとえています。
それに気づくとこの歌は、くっきりとした映像を伴って立ち上がってきます。この歌はアイスレモンティーやストローといったものを、大胆に省略しています。それなのに、喫茶店で向かい合っている若い男女の姿がいきいきと読者の目の前に見えてくるのです。
この歌にはもう一つの省略があって、「まわしていたが」のあとに来る言葉が、ばっさりと切り捨てられています。けれども読者は、沈黙の多い男女の会話や、そのときの切ない雰囲気まで感じ取ることができます。省略することで読者の想像力を導き出し、リアルな空間を作り出しています。
短歌は小説とは違い芸術作品である
歌を読むとき私たちは、「五・七・五・七・七」というリズムをじっくりと確かめるようにして読んでいます。黙読であっても、声を出して読むのとかなり近い作業をしています。週刊誌などをさらさらと目で追うような読み方とは違い、短歌を読むのは「身体的な行為」であると思い、これはある種の芸術なんだと思いました。
文字という「記号」を通して、読者と作者が一体化するという不思議な体験を味わうと病みつきになります。
オススメ現代短歌
最後に、筆者が最近はまっている歌人と歌集を紹介します。
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筆者は、日々の日常を自作の短歌に添えて、個人的な思いや感想を記しています。歌ができるたびに以下の記事を更新しております。よかったら併せてお読みください。
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