【自分を肯定し過ぎない】ひきさがることの大切さ

サブスクおすすめ
\プライム会員なら追加料金なし!/
ドイツ・ハンブルクに住む筆者の友人の作品

写真: ドイツ・ハンブルクに住む筆者の友人の作品, 出典: 当サイト

スポンサーリンク

【客観化する考え方】自己肯定しすぎないことの大切さ

こんにちは。Aoneko( @blue_cats03)です。今回は、「自分を肯定しすぎない」ということについて書いていきます。

 

 

作品をつくること、表現することはすでに自己を肯定しているのではないか?

最近ふと思ったこととして、公の表現の中にあまりにも強い自己主張とか、強い自己肯定があるということです。

例えば、何か作品を作ることだったり、表現するといったことはすでに自己肯定なのだと考えていて、自分を人前に押し出しているわけだから、その上に内容の方が、押しつけがましくては困ると個人的には考えています。

この考え方は、前衛芸術家の李禹煥の影響を少なからず受けています。李禹煥『余白の芸術』などの書籍を読めば、彼の哲学や思想がある程度理解できるかと思います。

ベネッセアートサイト直島の李禹煥美術館なども有名です。

Wikipedia1: 李禹煥

Wikipedia2: 李禹煥美術館

 

李禹煥の作品はある種極端な例かもしれませんが、建築家で言えばザハ・ハディッドフランク・ゲーリーよりもピーター・ズントー乾久美子を個人的に好む傾向があり、その理由は、少しひきさがっている建築作品であるからだと思います。

 

Wikipedia1: ザハ・ハディッド

Wikipedia2: フランク・ゲーリー

Wikipedia3: ピーター・ズントー

Wikipedia4: 乾久美子

 

 

少しひきさがるということ

筆者は最近短歌をはじめたのですが、これも自分を肯定し過ぎないことが大切だと思っています。これは、むつかしいところであるのだけれども、自分を肯定し過ぎる歌というのは、どうしても歌として成立しないような気がします。

一句の中に素直に表現することの「素敵さ」を否定することはできないですし、反論があった場合は、その通りだと思うのですが、ちょっと客観化した作品や、自慢するのかも知れないけど、上手に自慢している作品に自分は惹かれてしまうのです。

関連記事: 短歌はアート

短歌はアート
【短歌は芸術】短歌を読むのは「身体的な行為」であり、ある種のアートです。IT化が進んだスピーディーな世の中だからこそ、経過や経路、経験というプロセスを考えて表現した歌をしっかりと読んでほしいです。穂村弘さんや永井祐さんらの歌集がお勧めです。

 

【自己批判】自分へのアイロニー

最後になりますが、ここでは「自分を肯定し過ぎない」ことについて綴ってきましたが、これは大いなるアイロニー(逆説、つまり批判)を含んでいて、ベクトルの向きを逆にして〈わがまま〉な自分にそっくりそのままお返ししたいと思うのです。

 

ドイツ・ハンブルクに住む筆者の友人の作品

写真: ドイツ・ハンブルクに住む筆者の友人の作品, 出典: 当サイト

コラム
Aonekoをフォローする
Aoneko Lab