【客観化する考え方】自己肯定しすぎないことの大切さ
こんにちは。Aoneko( @blue_cats03)です。今回は、「自分を肯定しすぎない」ということについて書いていきます。
自己肯定感を高める本は「わかりやすい」から書店に多く並び、現に売れている。反して、〈自己を批判する〉本は少ない。
最近、公の表現の中にあまりにも強い自己主張とか、強い自己肯定があり、ときに押しつけがましく感じてしまう。少しひきさがることは大切なんだと思う。https://t.co/OgPVJ7ZiXN— Aoneko Lab (@blue_cats03) May 5, 2021
作品をつくること、表現することはすでに自己を肯定しているのではないか?
最近ふと思ったこととして、公の表現の中にあまりにも強い自己主張とか、強い自己肯定があるということです。
例えば、何か作品を作ることだったり、表現するといったことはすでに自己肯定なのだと考えていて、自分を人前に押し出しているわけだから、その上に内容の方が、押しつけがましくては困ると個人的には考えています。
この考え方は、前衛芸術家の李禹煥の影響を少なからず受けています。李禹煥『余白の芸術』などの書籍を読めば、彼の哲学や思想がある程度理解できるかと思います。
Wikipedia1: 李禹煥
Wikipedia2: 李禹煥美術館
李禹煥の作品はある種極端な例かもしれませんが、建築家で言えばザハ・ハディッドやフランク・ゲーリーよりもピーター・ズントーや乾久美子を個人的に好む傾向があり、その理由は、少しひきさがっている建築作品であるからだと思います。
Wikipedia1: ザハ・ハディッド
Wikipedia2: フランク・ゲーリー
Wikipedia3: ピーター・ズントー
Wikipedia4: 乾久美子
少しひきさがるということ
筆者は最近短歌をはじめたのですが、これも自分を肯定し過ぎないことが大切だと思っています。これは、むつかしいところであるのだけれども、自分を肯定し過ぎる歌というのは、どうしても歌として成立しないような気がします。
一句の中に素直に表現することの「素敵さ」を否定することはできないですし、反論があった場合は、その通りだと思うのですが、ちょっと客観化した作品や、自慢するのかも知れないけど、上手に自慢している作品に自分は惹かれてしまうのです。
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【自己批判】自分へのアイロニー
最後になりますが、ここでは「自分を肯定し過ぎない」ことについて綴ってきましたが、これは大いなるアイロニー(逆説、つまり批判)を含んでいて、ベクトルの向きを逆にして〈わがまま〉な自分にそっくりそのままお返ししたいと思うのです。